『美術館をめぐる対話』感想
こんにちわ
最近読み終えた
西沢立衛(にしざわりゅうえ)さんの
『美術館をめぐる対話』の感想です。
私は以前、収蔵作品を持たないアートセンターとよばれる施設について研究していた時期もあり、こうした美術館の変化や作品との関係についての話はとても興味があります。
この本では、西沢さんと、美術館に関わる建築家、アーティスト、作家、キュレーター等様々な人の対話が掲載されています。
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西沢さんといえば、妹島さんと設立したSANAAで
設計した金沢21世紀美術館が有名ですよね。
本の中で、ご本人は美術館の建築家としてはそんなに多くを設計していないと何度も言われています。でも、そういった人のアイディアが、2000年以降の美術館に求められていたということだと想いました。
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特に印象に残った部分について
・三章(南條史生さんとの対話)
常設展(パブリックアート?)メインに建設された美術館について。
ハコ→色んなモノ(作品)よいうより、
モノ&ハコというように、
特定の作品をメインにしているような美術館がありますよね。
これみていて、伊藤寿朗さんの『市民の中の美術館』(1993)の「博物館の3つの世代」を思い出しました。
・第一世代・・・「国宝や天然記念物など、希少価値をもつ資料(宝物)を中心に、
その保存を運営の軸とする古典的博物館」。つまり作品先行です。
おそらく、観光地などにある○○○像みたいなのがある博物館みたいなとこかなと。
・第二世代・・・「資料の価値が多様化するとともに、その資料の公開を運営の軸と
する現在の多くの博物館」。
文化施設建設ブームで建てられた多くの美術館ですね。
常設展は行われているものの、企画展で人を呼ぶことが多い所だと想います。
・第三世代・・・「社会の要請にもとづいて、必要な資料を発見し、あるいは
つくりあげていくもので、市民の参加・体験を運営の軸とする将来の博物館」
これが、市民参加が不可欠で、収蔵作品をもたないアートセンターでは
ないかなーと考えています。
上記の論理は、20年ほど前のもので、しかも美術館ではなく博物館のことなので、
まあはっきりあてはめられるかはわかりませんが。
※博物館は、美術館、歴史博物館、水族館、等々すべてを含んでいる。
で!
私が言いたかったのは、
2000年以降、第三世代の博物館(美術館)が増えていると思っていたら、
2010年以降?(まあ、奈義町は1994と早いですが)、第一世代の博物館に回帰してるのでは??ということです。
p.119で南條さんは、ハコをふやすというよりも、作品があって、それを守るためにハコでおおったという見方もある。
という風に発言しています。
つまり、ハコをつくっておいて、何でも対応できる!!その企画展ごとに客を呼ぶ!!というよりも、作品があって、そのためにハコをつくる。そこにしかないから、その貴重さで人を呼ぶ!(?)というモノ先行の美術館なんですよね。
でも、「そこにしかない」というのは、言い方を変えると「それしかない」
ということでもあるため、集客の面では難しいこともあります。
ですが、本当に価値あるものであれば、注目は続く・・と思いたいですねえ・・。
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・五章での、妹島さんとの対話
ここで、「公共・パブリック」とはという話が出ました。
そこで、西沢さんの、アメリカ人はパブリックという概念を、「自分のもの」、「自分が使えるもの」という理解をしているとの発言。
これは、なんかハッとしました。
公共・パブリックっていうと、日本だとすぐ「税金」のイメージがあるんですよね・・。で、文句言う人は、「私が払った税金なのに、こんな美術館いらない!!」とか言いますよね。ですが、その逆で、「私はこの美術館や企画で、こんないい経験してるから、いる!!」みたいな発言ってあまり聞かないですよね。そんなことを言うと、自己中心的みたいな風潮があるような・・。
この章で、西沢さんが最後に「公共とか集団というのは、考えてみれば、帰属するひとりひとりの主体性や個性、独創性が重要」との発言がありました。公共というぼんやりとしたものを恐るよりも、自分や周囲の人という個人個人が、公共の一部であることを認識したいと本当に想いました。
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ざっとした感想になってしまいました。
この本は新書ですし、対話形式でもあるため、明確な歴史とかが載っているわけではありません。
私は、この本を読んで、建築が環境やその時の周囲の状況という公共を意識して練られていることや、その地に残り続ける作品、美術館は、常に変わり続ける余地や柔軟性をもってきていると考えるようになりました。
なんか曖昧ですが、とりあえず感想おわりです!
青森いきたい!!!